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畏敬と深謝

 鳥取大学脳神経小児科(鳥大脳小)医局での出会いは、1975年夏休みでした。2月、竹下研三先生のポリクリが契機で、「医局においで」と誘われてのことでした。事情があり、同年10月に結婚をすることになり、竹下先生に頼みましたが、固辞され、有馬先生ご夫妻が仲人に。自身にとっては、あまりにも恐れ多いことでした。1977年3月の卒業と同時に脳小医局に在籍する身になりました。が、うだつが上がらず、必死の思いで努力をしても、脳小の臨床研究水準にほど遠いままで推移しました。
 発端は失念しましたが、教授室に呼ばれ、叱責を受けた際に、(自虐的に笑みを浮かべていたようで、)それは厳しく、自責の念を強く抱いた記憶は鮮明(トラウマ)です。結局、脳小在籍は1年余に留まり、教室での研究成果は皆無です。カーター教授が来日された際、医局長指示で、(辞すことが叶わず、)両教授が小生のボロ車に乗られ、松江まで運転しました。車内、お昼の会席と湖畔の散策の際、(英会話ができないため)ほぼ無口の小生でしたが、有馬先生は「会話は聞いて理解している」と、カーター先生に言われ、困惑至極、奈落の下に落とされたかのごとくの感を抱きました。(お笑いください。)
 有馬先生に仲人をしていただいた脳小先輩諸氏(夫婦・子)が、皆生温泉東光園に集ったのは、還暦祝賀の際・・・。穏やかな雰囲気の中で、私事、教授ご夫妻と笑顔で交わす妻の同席も救いで、過度に緊張をせずに笑顔で過ごせたことを思い出します。
 脳小の最劣等生を自認している身ですが、1981年度から鳥取県立中央病院(中病)に赴任後は、脳障害を予防する観点からのハイリスク新生児医療に邁進し、後年周産期センター・小児科の責任も担い、1989年度からは鳥取療育園の園長も兼務で13年間担えました。医療局長(初代)を任じられた際に、県は「責務が重くなるから・・・」と、兼務の園長が外れました。子どもたち・保護者から勇気づけられ続けていた現場を失った感を抱いた次第でした。一方、その約1年前から智頭病院で長年務められた小児科の先輩がご家庭の事情で辞され、間もなく、中病の時間外診療の際に、発熱した幼児の某お母さんが「智頭では子育てが出来ない!」と発言されたことなどで、結果、2003年11月1日に現任地に異動しました。初めての一人小児科医でしたが、今も継続中です。小児神経学とは疎遠となった日々、学会を辞して、過疎地病院小児科医として、保健・福祉・園医・学校医などを含め、務め続けています。
 有馬先生のご期待には全く沿えなかった臨床医です。が、おかげさまで、子どもたちとの出会いの際は(毎月6-7回の病院全科当直を含め、トリアージを的確にこなしつつ、)笑顔で臨めています。
 主宰者が小生を認めたことも要因となって発足した、当時は全国的に珍しかった[森のようちえん]とのかかわりは、自身にはありがたく嬉しい機会になっています。その象徴が[森での健診]です。

馬乗り状態で順々に(上左)。冠のプレゼント(上中)。冠を乗せた健診(上右)
終了後、長い蔓の列車(下左)。お別れ(下右)/2023年5月18日昼休み時間帯

 ◆ 主宰者との授受です。[ 健診お世話になりました✨ いつも先生の幸せが伝わってくるレポートありがとうございます😊 こんな素敵な先生に診てもらえる子ども達、本当に幸せですね✨
日野原先生のように100歳まで(あと30年!)先生に診てもらえることを願ってやみません!!
まだまだ宜しくお願い致します🙇‍♀️ ]

 返信[ 28年♪~自身の今後が楽しみです。いつ、どんな衰えが目立ち始めるのか、カヤックを何歳まで(どこで)漕いでいるのか? 何よりも[森での健診]では居場所に帰って来た感覚を抱きつつ、裸足・スリッパ、半袖のユニフォームで、笑顔で子どもたちに向き合えるのか・・・などナド♪ ]

 ※ 組写真は、依頼があり寄稿した鳥取県医師会報[フリーエッセイ](2023年6月号)使用分

 有馬先生は、穏やかな笑顔で、子どもたちと小生の関りを容認しておられると、願いつつの今です。

 衷心より、ご冥福をお祈りいたします。(合掌)

2023年6月18日(日)父の日に

 編集責任者のK先生から受領に係るメッセージをいただきました。感謝です。 6/19

 早速にお原稿をお送りいただきありがとうございました。お心のこもった追悼文、心にしみました。
先生のご活躍で、こどもたち、お母様たちを力づけていただけること、本当に素敵なことだと感じました。

有馬先生もよろこんでくださっていらっしゃることでしょう。ひきつづきお元気でご活躍くださいますように。御礼まで

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